成田校長:和田先生はこれまでいろんな方との出会いがあったと思いますが、先生の生き方に大きな影響を与えた方についてお話しいただけますか。

 

和田校長:2人います。1人は英語を6年間習った英語の先生です。この先生は、戦前から英語教師をしていらしたんですけれど、大学を出て教員の資格を取ったんではなくて、文部省が行う文検(教員検定試験)に合格して教員になられた方でした。ですけど、その先生は当時の英語の先生の中で発音が一番きれいでした。

 いろいな方から人生を教わってきたなかで分かったことなんですが、その先生は、横浜生まれで旅館のボンボンだったんですね。ところが関東大震災で両親亡くして宿屋も潰れて震災孤児になってしまったんです。ガキ大将で食うや食わずで泥棒でもしないと食べていけないような世の中にいて、あるとき外国人の女の人がすごいきれいな箱を持っていたのを見て、きっとおいしい物が入っているにちがいないと思って後を付けて行った。その女性はある建物の中に入りその箱を置いた。それを盗みに入った。そこを他の人に見つかってその場で捕まってしまったんです。

 その女性はフェリス女学院のシスターで、箱の中身は聖書だったんです。その女性は「聖書を盗んでまで読もうとする人だから立派な人に違いない。放してあげなさい」と言い、「その代わり、毎週ここで日曜学校があるから来なさい。そのときに茶話会があってご飯が食べられるから」。それでずっと日曜学校に通って英語を習ったんですね。その英語のお陰で、外務省に入って映画や図書の検閲の仕事をしていたんですが、健康を損なってしまい、文検受けて教師になったんです。私はその話を聞いてすごい先生だなと思いました。

そして教員の道もいいなと思ったんです。大学に入ったときは、学者になるのもいいなという気持ちもあったんですが、結局教師の道を選びました。その先生の下で教育実習もやりました。その先生は、私が母校の教員になりたいと思っていることを校長先生に伝えてくださったんです。それで校長室に呼ばれて採用が決まったというわけです。

 

成田校長01

成田校長:
素晴らしい先生との出会いがあって母校の教員になられたんですね。和田校長先生はその先生に見込まれていたんですね。教員になられてからその先生とはどうだったんですか。

 

和田校長: その先生にはお世話になりっぱなしだったんですけど、学校に行くと今までと違って同僚なわけです。母校だとは言っても生徒でいるときと教師では全然違いますね。とりあえず、「6年間は先生に習ったように真似してやらさせていただいてよろしいですか」と言うと、先生は「好きなようにやれ」と言ってくださった。「先生が作られている手作りの構文集も使わせていただいていいですか」というと、これも「いいよ」と言ってくださった。それも生徒達に配って、はじめ6年間は見よう見まねでしたね。でもその先生は、2~3年したら定年退職で学校を辞めてしまいました。

 その先生からはゴルフの手ほどきも受けました。先生の夢は、イギリスのゴルフの聖地と呼ばれるセント・アンドリュースでプレイすることでして、「それができたらその場で倒れてもいい」とまで言っていました。それでその先生が退官された夏に、イギリス行きを企画して皆で行ってきました。「本当に倒れたら骨拾いますから」と冗談言いながら。以来、へたくそながらずっと趣味として私はゴルフを続けています。その先生の影響が一番ですね。

 もう1人影響を受けた方は、私が母校に帰った時の校長でいらした勝山先生です。元々国語の先生で私にとても目をかけてくださいました。勝山校長先生は、うまく人を見て、全然口出しをせず、でもなんかまずいことをした時だけは、「和田君ちょっと」と言って、校長室に読んで「あれはあかん」と言って教えてくれる先生でした。人の前では絶対に叱ることはありませんでした。校長になってからのひとつのロールモデルですね。この2人から影響を受けました。        

                         

成田校長: 私が一番影響を受けた人と言えば、なんと言っても本校創立者田澤康三郎先生です。この先生と出会っていなければ今の自分はありません。高校時代に生き方について強く影響を受けました。

 私が松風塾高校の教員になって帰ってきた経緯についてお話しします。高校卒業後、私は京都外国語短期大学に入学しました。夜間の短大です。好きな英語を専門に勉強できることが本当に嬉しかった。昼は英会話学校、夜は短大とダブルスクールでした。

 卒業後、京都外大の3年生に編入学しました。大学4年生の春、田澤先生のところに「松風塾高校の教員にならせてください」とお願いに上がりました。田澤先生はきっと喜んでくださると内心ウキウキしていました。ところが、田澤先生は「ダメだ。君はまだまだ実力不足だから、大学院に進学するとか留学するとかしてもっと勉強してきなさい」とおっしゃったんです。考えてもいなかったことなのですごく驚きました。

 その言葉を受けて、私は大学院進学に方向を切り替えて勉強し何とか合格できたんです。京都外国語大学には派遣留学という公費留学制度がありました。今度はそれに挑戦しました。運良くサンフランシスコ州立大学大学院(修士課程)に留学する道が開けたんです。ただし奨学金の支給は1年間だけ。留学生活も何とか1年過ぎました。あと1年あれば卒業できると思って親に相談したら、「もう経済的にむずかしい」と言われ、卒業を断念せざるを得なくなりました。それで私はアメリカから、田澤先生に「家庭の事情で留学は1年で切り上げることに致しました」とお手紙を出しました。

 日本に帰って、田澤先生にご挨拶に伺いました。そうしたら、先生はこうおっしゃったんです。「親であれば子どもの夢を何としても叶えてあげたいと思うものだ。私には子供はいないが、松風塾の生徒を本当の子供と思って育ててきたつもりだ。ここに私と家内の年金がある。これで君の夢を叶えてきたまえ」。私は心から感動しました。実の子供でない一卒業生にここまでしてくださるなんてと。それからは、先生のお心にお応えしなければと一層自分に喝が入りました。途中でくじけるわけにはもういきませんから。お陰様で私は残り1年間で卒業できました。有り難かったです。

 こういう経緯があり、私は田澤先生に何としても恩返しをしたいと思って、母校松風塾高校の教員になったんです。

和田校長:そうだったんですか。

 

成田校長:今日は短い時間でしたけれどもお話を頂戴できて感謝申し上げます。

 

和田校長:こちらこそありがとうございました。


(終わり)



その1~創立者の想いが伝わっている学校

その2~英語を勉強しようと思ったきっかけ

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